前エントリーで予告した返還前最大の「どがちゃが」、「生きてるうちから遺産争い」となった「鄧家争産事件」について書いておきましょう。
騒ぎの主役は、新馬師曾(1916年6月20日-97年4月21日)。本名・鄧永祥、広東順徳人。香港を代表する粵劇(広東オペラ)及び喜劇俳優として 活躍。新馬仔(サンマージャイ=新馬ちゃん)とか祥哥(チュンゴー=チュン兄貴、ブラザー・チュン)として親しまれる。映画『リトル・チュン(港題=細路祥)』では、新馬仔の死が背景となっている。その死は返還と重ねあわされるかのごとき、古き良き香港の終わりの象徴でもあった。弱冠10歳で香港の桧舞台「利舞臺=リーシアター」の人気者となり、粵劇に映画に大活躍。レコード会社やレストランも経営し、さらには不動産資産も有する事業家としても成功を収めた。1965年に同棲を始めた祥嫂(チュンソウ)こと洪金梅は4人目のヨメさん。二人の間にはタレントの鄧兆尊ら4人の子供。
97年当時、小生が勤務していた会社の隣のビル「永祥大廈」は新馬仔の住まい。96年9月末からこのビルの前は連日、報道陣でごった返したのであります。
事の発端は96年9月27日。新馬仔が「永祥大廈」の名義を祥嫂から子供たちに変更したのが始まり。
10月に入ると新聞各紙が「永祥大廈の名義をめぐり新馬仔と祥嫂が夫婦喧嘩」と報道。香港中が小生の勤務先の隣のビルに注目したのであります。ほどなく一家揃って「喧嘩なんてしてないよ」と会見。騒ぎは終結かと思いきや。
◇11月
・ビル所有権が祥嫂から子供たちに変更されたと改めて報道
・長男の兆尊が祥嫂に「年内引き渡し」を迫る
・次男の兆榮がディスコで謎の人物に襲撃される
◇12月
・祥嫂が子供たちを「まるで紅衛兵!」と罵倒すれば子供らは「お前なんか江青だ!」と反撃
・祥嫂の実弟・実妹のうちの「新馬仔支持派」、「祥嫂支持派」のレコード会社襲撃
・祥嫂、「永祥大廈」の警備強化
・新馬仔、レコード会社社長(祥嫂の実弟)を解雇
・祥嫂、家出
・新馬仔が「ある筋の親分」から「今後子供を襲撃しない」との約束を取り付けた旨発表
・各紙「祥嫂、中国へ逃亡?」を一斉に報道
・『東方日報』、行方不明だった祥嫂をミッドレベルで目撃と報道
◇97年1月
・新馬仔、気管支炎悪化で入院、一時危篤に
・白韻琴のラジオ番組に祥嫂の友人出演。放送中に子供たち乱入。他のDJや局員、新聞記者も入り乱れ大混乱。新馬仔支持のタクシーが局に集結し局周辺の交通も大混乱に。夜のニュースなどテレビの報道番組も放送時間を変更して、騒ぎを大々的に放映。連続ドラマなど帯番組一斉に吹っ飛ぶ
・騒動はDJ間の罵倒合戦に拡大し、香港政庁には苦情も殺到
・白韻琴のラジオ番組を放送する「メトロラジオ」幹部は「もっとやれ~!」とけしかける
・・・
新馬仔(右)と祥嫂
こんな騒ぎが鄧小平死去で全港服喪の数日間を除いて延々と繰り広げられていたのです。
当時、勤務先の香港人スタッフが言ってました。
「鄧小平のドキュメント番組なんていいから、もっと新馬仔を!」って。
そりゃそうです。テレビカメラが回ってる前で、流血の殴り合いが始まり、放送禁止用語が飛び交うのですから、こんなおもしろい番組は香港始まって以来なかったでしょう。それも我らが大スター・新馬仔が主役と来れば、向かうところ敵なしの高視聴率番組。新聞も1面トップから娯楽面はもちろん社会面、経済面まで新馬仔の話題でもちきり。小生も、何度も「永祥大廈」前に陣取る報道陣からコメントを求められましたが、新馬仔に何の思い入れも無い一介の外人ですから「あはは、なんだかオモロイね~」くらいしか答えようもなく…。
そして主役の新馬仔。入院により途中退場のまま、4月21日午後8時30分、逝去。翌日の新聞は「解放軍先遣部隊到着」そっちのけで新馬仔の死亡報道で染まったのは言うまでもありません。
その後も、正真正銘の「遺産相続」をめぐる母子の確執は継続されたのですが、2006年7月7日、法庭が下した裁決で新馬仔の長女・鄧小艾の勝訴確定。 祥嫂は敗れ去ります。ほぼ10年の歳月を経てケリがついたこの騒ぎ、判決の後、祥嫂61歳の誕生パーティーで4人の子供たちとの手打ちも行われ、収束したという次第。
いかにも香港らしいどがちゃが劇でした。
でも、結局だれが何のために仕掛けた騒ぎだったんでしょうかね??
在大阪香港永久居民。
頑張らなくていい日々を模索して生きています。