ショックというよりも「ついにこの日が来てしまった」という思いの方が、大きい。
今朝は目覚ましを8時半に合わせ、9時半には家を出て紀元祭の祭事に列させていただくため、橿原神宮に向かう予定だったが、二度寝してしまい、9時半にあわてて起床した…。そして10時を目前にしたとき、NHKの画面に速報が出た。しばらく呆然と速報の文字が消え去った画面を見つめるしかなかった…。
小生、前日まで香港にいた。「永久居民身分証」の関係で、短期間の滞在だった。滞在期間中、珍しく「南海ホークス」の緑の帽子をずっと被っていた。子供のころから、南海帽で外出することはまずなかった。それが今回、どういうわけか、ずっと被っていた。その翌日の訃報だ。これはもしかしたら、いわゆる「虫の知らせ」というやつだったのか…。偶然にしては、なぁ…。
偏屈極まりない野球ファンの小生。拙ブログのホークス戦観戦記「Go! Go! HAWKS」を見てもらえば、一目瞭然だが、ひねくれた目でしか愛すべきホークスを語ることができないのだ。こんな人間になってしまったのは、野村克也のせいだ。責任取ってくれ…。
4歳の時、初めて大阪球場に南海戦を観に行って以来、今季で53シーズンもの間、一度も「素直な」目でホークスを観ることができないでる。「シンキングベースボール」とやらで小学生だった小生を洗脳した罪人である。
打席でもダルそうにしているし、足も遅いし、福本には走られっぱなし。「もう監督専任したらええのに」と思っていた矢先、40歳を目前にした野村は28本の本塁打を放った。時に昭和50年、小生、6年生のシーズンのこと。しかし、ホームランバッターとしての野村の輝きは、これが最後だった。
その後のことは、語らなくても世間様ご承知のとおりである。南海電鉄との縁は途絶えたのだ。南海は「復縁」を申し出たが、野村はウンとは言わなかった。大阪球場跡地のなんばパークスに「野村の『の』の字もない」のは、野村が頑なに拒否したためだ。
野村への思いは、複雑だ。これは南海時代を知るファンなら、共有できるものだ。それでも、その後の野村が、気になっていたのも事実。
上述の事情から、ホークスがダイエー、そしてソフトバンクとなっても、野村がホークスと名の付く場面に登場することは、絶望的だった。仕方ないとあきらめていたが、平成25年8月31日、野村は36年ぶりに「南海ホークス」のユニフォームに袖を通した。現地でしっかりと見届けた。わずかな雪解けだった。中学2年生だった小生が50歳まで待たねばならなかった。やっぱ、小生にとっては、どこまでも罪な人である。
その数時間前、講演会が開催された。小生はおそらく38年ぶりくらいに、野村と数メートルの距離にいることができた。中百舌鳥球場でのキャンプ初日、一塁側ベンチに群がる報道陣に交じって、「ご法話」を聴いて以来のことだ。まあ、のどかな時代だった。そんなところにまで少年ファンが入って行っても、つまみ出されることなどなかったのだから。
大阪球場前の緑のリンカーンコンチネンタルは、野村の愛車。本人は事あるごとに自分を「月見草」だと言うが、こんな立派な車、スーパースターでないと乗れないし、似合わない。野村は、ONと比すれば「月見草」かもしれないが、あの時代のパ・リーグにあっては、輝く太陽であり、ひまわりのような存在だったのだ。
上にも記したように、小生から「すなおな目」で野球を観る楽しみを奪った、大悪人である。大阪球場前で「出待ち」をしていても、不愛想極まりない陰気なおっさんだった。それでも、昭和40年代の南海ファンの少年たちにとって、野村はまぎれもなくスーパースターだった。
いろんな思い、様々な思い出のシーンが、頭の中に蘇る。「あのときは、あーでしたね、このときは、こーでしたね」と、一つ一つをご本人を前に語りたいほどだ。それはもう叶わない…。
「お悔やみ申し上げます」「ご冥福を祈ります」「RIP」「残念でなりません」などなど、ありきたりのメッセージが、ネットやテレビの画面に並ぶが、そんな言葉では、とても済ませられないのが、今の小生の状況だ。恐らく、「野村がいた南海」と時代を過ごしたホークスファンは皆、そうだろう。小生にとっては「大悪人」以外のなんでもない人なのに…。
ただ、この人に大きな恩を感じるとすれば、それはただ一つ。50年以上も「ホークスファン」でいることだ。この腐れともいうべき、切れそうで切れない、切りたくても切ることができない「縁」をつないでくれたのは、ほかならぬ野村克也だからだ。
南海ホークスのユニフォームが、ホークス史上、もっともよく似合うのは、間違いなく野村克也である。もう一度聞きたい。大阪球場の音質の悪いスピーカーから流れる「四番、キャッチャー、野村。背番号19」の声を…。
(令和2年紀元節)
在大阪香港永久居民。
頑張らなくていい日々を模索して生きています。