人形浄瑠璃文楽
平成二十八年四月公演 通し狂言 妹背山婦女庭訓
満開の桜に迎えられた春の本公演も、千秋楽には新緑がまぶしく陽に輝いていた。この時期の季節の移ろいはとても速い。
『妹背山婦女庭訓』の通し上演は、大入り袋が出される盛況に終わり、文楽劇場の客席は「それなりに」にぎわっていた。動員が多かったのだから万事よしというのは違うのであって、客席はにぎわっていても肝心の舞台の方はどうだったかとなると、今公演も万々歳というわけにはいかなかった、と小生は感じた。そのへんのことも交えながら、第二部のあれこれと千秋楽を聴いた雑感などを記しておく。
『妹背山~』は、前回も記したように、第一部のクライマックス「山の段」の両床や吉野川を挟んだ舞台のあつらえもあって、『妹背山~』といえばこの段を思い浮かべてしまうのが世の常であって、そりゃまあ仕方ない。小生だってそうだ。ただ、通しでこの出しものを聴いた際、やはり後半の物語性の高さとそれに比例するような「文楽性」の濃さは、前半をはるかに凌駕していると思える。観るにつけ聴くにつけ、後半の方が圧倒的に面白いのである。この前のエントリで「前半観ただけで『妹背山』観た気になるなよ、テメーら!」って言い放ったのは、こうした理由からである。
二段目
「鹿殺しの段」
御簾内から亘、錦吾。
二段目だから本当なら一部で観た「猿沢池の段」に続いて上演されるべきなんだろうけど、それをしちゃうと「山の段」で一部を終えられないからかな、こんな具合に段が行ったり来たりする構成になっているのは仕方なし。
ここから「芝六忠義の段」までは、鹿殺しの「十三鐘」、「石子詰めの刑」といった奈良の伝説を知っていればより楽しめる。「猿沢池の段」の「絹懸柳」、四段目での「苧環伝説」も含め知ってりゃ面白し、知らなくても…、、、う~ん、そこは何とも言えない。だからと言って、特に予習の必要もないだろう。まあ、落語の『鹿政談』くらいは知っておいたらいいかもな。
「掛乞いの段」
始、龍爾
溜まった支払いの催促に来た米屋と、猟師芝六の家に匿われいる天智帝の付き人の一人、大納言兼秋との頓珍漢なやり取りが楽しい段。まずまず。
「万歳(まんざい)の段」
睦、清馗 ツレ・燕二郎
後半の話のポイントになると思われる段。序盤~中盤までそこそこ聴かせてくれるが、2回とも終盤に睡魔が襲う。ダレてしまったわけではないと思うが、2回観て2回ともそうだったという点が、睦の課題か。千秋楽は頑張って聴いたけど、客に頑張らせるようではいけませぬ。太夫が頑張らないと(笑)。せっかく床間近の席を確保したのに、もっと聴かせてくれなくては。
「芝六忠義の段」
英、宗助
まあ、実質「切場」みたいな場。そんなわけかどうかは知らぬが、初日に「大当たり!」なんて掛け声かかったのには苦笑いしてしまった。そりゃ、安定度抜群にして切場語りに最も近いと言われる英太夫と、これまた安定度抜群の宗助の三味線だから、よい浄瑠璃ではあったのは事実だけど、だからと言って初日からいきなり「大当たり」もないだろう。あれは白ける。
お雉の三作への情愛が胸を打つ。「石子詰め」の刑に遭わなくてよかったよかったという安堵は、三作に対するものであるとともに、お雉への気持ちでもあった。そう思わせるのが、太夫の実力だと思う。
それにしてもこの段、話の展開が何かにつけて突飛すぎる。「そんなうまいこといかんやろ~」という突っ込みどころ満載である。まあ、それが文楽なんだけど。
人形は芝六の玉男、お雉の蓑二郎、米屋の勘市、藤原淡海の清十郎、采女の一輔がよい。特に一輔、ますます立ち姿が美しい。
四段目
「杉酒屋の段」
咲甫、燕三
咲さん休演に付き、咲甫が代演。咲さんならどんな感じにやってたかな~、などと思わせてしまった咲甫は、ちょっと残念だったかな。これは、咲甫がいささか気の毒な面もあった。ただでさえ手薄な太夫陣。そこへ嶋さん引退、咲さん休演とあって、人員不足にさらに拍車がかかる。今公演、咲甫は「山の段」で妹山の床で定高、この「杉酒屋」、続く「道行恋苧環」で求馬として掛け合いの並びに出ると、一部二部で出番が多かった。「代演はチャンス」とは言え、これは辛い。というか、そこまで無理させねばならぬほど、太夫陣は厳しい状況にあるということ。まあ、咲甫は咲甫で、この段、ちょっとチャラい感じがした。そういうのもあり~の、そうでない場面もあり~のでやっていかないと、客が単なるチャリ場と誤解してしまうから…。
本来、この段の前に「井戸替え」という段があって、前回、夏休み公演で「妹背山」の後半だけ上演された際、「井戸替え」も久々に演じられた。「杉酒屋」終盤に、お三輪の母親が息せき切って帰宅するなり
「ヤア求馬殿。こなさんには用がある。何処へも遣ることならぬ。動くまいぞ」
と身構えたの理由は、「杉酒屋」だけ観てもあまりにも唐突で「なんのこっちゃ?」やけど、「井戸替え」観たら、そのわけもよくわかる仕組みになっている。時間的制約もあるのは重々承知だが、これは不親切極まりない構成というものだ。パンフにちらっとワケが書いてあったが、そんなん上演中に誰も読まんって。
『妹背山婦女庭訓』でお三輪ちゃんが、このように主役格として扱われるその理由が、第二部の舞台を観れば、「ああ、なるほど!」とうなづける。
「道行恋苧環(みちゆき・こいの・おだまき)」
<太夫>お三輪・津駒、求馬・咲甫、橘姫・希、咲寿、小住
<三味線>寛治、清馗、寛太郎、燕二郎、清允
床はそれぞれが持ち味を出していたが、それだけの話って感じだった。まあ道行だからそんなもんかもしらんけど。希は、橘姫という役どころを意識しすぎてしまったか? もちろん意識は必要だけど、がんじがらめになってしまっては元も子もないという見本のようでもあったのが心残り。
三味線は寛治師匠を軸にかっちりと。清馗のサブリー
ダーぶりが頼もしく感じた。
人形はひたすらに美しく。三人が後姿を見せたときのピンと伸びた背骨に惚れ惚れしてしまう。遣う人がこうだから当然人形の動きも美しくなる。
出だしで浅葱幕の下りた前で里の童三人が登場する場面は、昭和44年以来、実に47年ぶりのことだという。勘介、玉路が全期間通し、和馬、蓑之が前後半ダブルキャストで。今度いつ観られるかとなると、これが生涯最初で最後かもしれないだけに貴重な舞台だった。
またこの段では、お三輪が橘姫に向かって
「主ある人をば大胆な、断りなしに惚れるとは、どんな本にもありやせまい。女庭訓躾方、よう見やしやんせ、エゝ嗜みなされ女中様」
と言い放つ場があるけど、この物語が『妹背山婦女庭訓』と名乗る背景はまさに、ここだろうと思う。入鹿誅伐を全体の核として、前半の「妹背山物語」、後半の「女庭訓物語」が展開してゆくということだろう。そういう意味でも、この道行は重要。
「鱶七上使の段」
文字久、清志郎
住さんがまだバリバリ元気だったころ、文字久はよく公演終盤に声を壊してしまっていたと記憶する。なにせ初日に「おお、ええやんかいさ!」と思った場が、千秋楽には「なんじゃいな、そのハスキーボイスは!」ってなことしばしば。ところがどっこい。住さんが引退してからこの方、文字久は声を枯らすことはなくなったみたいだ。住さんには悪いが、のびのびとやっているように見える(笑)。今公演では、「山の段」で大判事という大役を語り、もうそれだけで疲労困憊の中、この段も語りぬいたことをまず称賛し、文字久と聞いて「ああ、いつも住さんに怒鳴られてる人ね」という、テレビの住さん引退ドキュメント番組が作ってしまった悪しき印象を払拭するよいきっかけになったと思う。それなりのキャリアを積んでなお怒鳴られるというのは、住さんの期待の裏返しでもあってそれは要するに、ファンも含めた文楽全体からの期待ということ。
清志郎は相変わらず「寡黙な仕事人」という風で、このコンビは印象がよかった。
「姫戻りの段」
芳穂、清丈
こちらも結構好印象なコンビ。いつの間にか、掛け合い卒業で一本立ちした芳穂は、声がよく声量もあるので楽しみな存在。今公演は一度も清丈と目が合わなかったので、「笑かせてほしいんか~?」と、目で訴えることもなくて、よかったような寂しいような(笑)。あ、これは小生の密かな楽しみです(笑)。
「金殿の段」
津駒、團七
午後4時開演、終演が午後9時過ぎという長い長い第二部の終わりは、あのお三輪ちゃんが「疑着の相」を持つ女と化し、ついには入鹿誅伐のためとその若い命を奪われてしまうという、「こりゃまあ、なんとも!」という幕切れでチョンチョンと柝が入る。いやはや、それにしても大和の酒屋の町娘だったお三輪ちゃんが、入鹿誅伐に一役買うとは、いくらなんでもそんなことまで「女庭訓躾方」には書いてあるまいに…。これも恋い焦がれる求馬さんのためならという健気なお三輪ちゃんであった。しかし、この娘の最期を杉酒屋の母親はいつどんな形で知ることになるんだろうか…?
女官たちに嬲られながら、次第に「恋」が「怨」へと転じてゆくお三輪ちゃんを、津駒師が團七師匠の巧みな導きのもとにこってりと語り、その有様を勘十郎がおぞましいまでに遣って見せて、「5時間見続けた甲斐があった!」とご見物衆を納得させる。
鱶七すなわち金輪五郎も見もの聴きものだった。人形の玉也は粗野で武骨な鱶七としての一面と、ダイナミックな金輪五郎という一面を見事に表現していて、こういう役はこの人なればのことだとこれまた納得の好演。津駒師の金輪五郎の詞ノリも見事で、「ああ、文楽って楽しい!」と思えて嬉しかった。
人形で言えば、お三輪ちゃんをいたぶる官女4人で、蓑悠が主遣いデビュー。立ち姿美しい一輔の息子さん。と言っても、この役ではほとんど動きもないから、その実力は不明。現在、蓑助師匠のもとで修業中。一暢さんもあの世からヒヤヒヤしながら観てたんじゃないかな。
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公演期間中に、熊本、大分での大地震が発生した。被災地から今公演へ来る予定だった人もいただろう。東北の時もそうだったが、文楽劇場ではさっそくドネーション活動が始まった。行動が早いのはよいことだ。
千秋楽に訪れたときには、朝の開演前から芸人たちがロビーに出て人形を遣いながら募金を呼び掛けていた。東北の時には住さんが先頭に立っていたのを思い出す。今回は熊本にそして熊本城にゆかりの清正公も並んでいた。いずれ現地がある程度の落ち着きを取り戻したら、文楽も現地へ向かうだろう。三番叟で大地を踏みしめてもらいたい。文楽ができる復興支援は、現地で文楽をお見せして浄瑠璃をお聞かせすること。こういう時こそ、「情」を描く文楽の出番だ。
さて、今公演もまた、人形チームの充実が目立った。もはやこれが当たり前の状況になってしまっているのは、かなりの危険水域に達しているということでもある。在阪紙のレビュー記事は総じて、世代交代、若返りをキーワードに、「妹山背山の段」の太夫陣の奮闘を「身が震えるほどの感動」などと称賛していたが、少なくとも小生は「身が震える」ことはなかった。それは小生の感性がその程度でしかないからかもしれないが。
とにかく太夫陣のコマ不足が大いに目立った今公演。それについて、もはやつべこべ言わないけど、いつも言うように太夫の一層の奮闘を! 毎度毎度、チラシやポスターが人形の写真では、気ぃ悪いでしょ、太夫の皆さんも!
(平成28年4月2日、9日、24日 日本橋国立文楽劇場)
在大阪香港永久居民。
頑張らなくていい日々を模索して生きています。
浄瑠璃の中に「わたくしひろせに・・べれべれまんざいを・・」とある通り「まんせい」の段ではなく「まんざい」の段です。よろしければ訂正お願いいたします。
勘市さん
ご指摘ありがとうございます。
改めました。