【上方芸能な日々 文楽】平成27年度 錦秋文楽公演<2>

人形浄瑠璃文楽
平成二十七年 錦秋公演 玉藻前曦袂

文楽、秋の本公演の呼び物は何と言っても、唐、天竺に及ぶ壮大なスケールで展開する本作品の「日本編」に絞った「半通し公演」は、大阪では初めてとなる『玉藻前曦袂(たまものまえあさひのたもと)』。

鳥羽天皇の側室、玉藻前の身を借りた九尾の妖狐が、この世から神道、仏道を滅して魔道の天下を目論むという、文楽には珍しい「魔界物」である。

なぜ、このいかにもおもろそうな演目が、かくも長きにわたって通し公演されてこなかったのか?
理由は色々あるだろうけど、結局、それは観客側にあるんじゃないかと思う。文楽=近松=世話物や、三大名作(忠臣蔵、千本桜、菅原)とか伊賀越、妹背山などの壮大な時代物を好むというか、それしか認めない風潮があまりにも強かったんじゃないかと。もちろん観客動員を考えれば、このへんを出せば間違いないんだろうけど、この繰り返しではいずれ客は離れてゆく。技芸の向上にもつながらない。

そういう意味では、この玉藻前のように永くかかってなかった演目や、埋もれてしまっている作品の発掘、再構築には強く期待し要望してゆきたいものである。無形文化財、世界遺産としての文楽に課せられた大きな使命は、とにもかくにも作品と技芸の伝承にある。

休演者が多い。津駒大夫、咲若大夫は初日から。3日目からは紋壽師匠が。先日も記したが、嶋さん、文雀師匠は最初から配役に名が出ていないから、実質休演。公演2日目に『団子売』で出てきた紋壽さん観て「この人、千秋楽まで続けて出れるかな」というくらい、不調さが目立った。あの人のああいう姿は見たくなかった。ショックだった。日にちがかかっても、元気になって復帰されることを願うばかりである。

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玉藻前曦袂(たまものまえあさひのたもと)

■初演:寛永4年(1751)、豊竹座
*読本『絵本三国妖婦伝』(高井蘭山)などをもとにした改作『絵本増補玉藻前曦袂』(文化3年〔1806〕)が現在のもの
*人気演目だったが、通し上演は昭和9年を最後に途絶え、昭和45年に淡路人形芝居で二段目からから五段目を短くまとめたものが復活公演される
*「日本編」に絞った上演は昭和49年9月(国立劇場)以来
*昭和57年、国立劇場で初段、二段目が復刻され通し上演
■作者:近松梅枝軒、佐川藤太 合作


「清水寺の段」

太夫は、津國(薄雲皇子)、南都(犬淵源蔵)、文字栄(安部采女之助)、希(桂姫)、亘(腰元二人) 寛太郎
太夫は「五者五様」で掛け合いの面白さ。寛太郎は既に手練の域。何度も言うけど、末恐ろしい存在。いっぺん、大きな壁に突き当たりなはれと(笑)。

「道春館の段」
中>芳穂、清馗
もう芳穂大夫はここらへんの端場を任せて安心の領域。耳に素直に入ってくる。清馗がうまくコントロールしている印象も無きにしも非ずだけど、そこは持ちつ持たれつ。

奧>千歳、富助
「さて千歳さん、今公演はいかがでしょう?」という先入観を持って聴いてしまうという「悪癖」はなんとかしたいが、期待しているだけにそれも仕方なし。前半、非常にいい雰囲気で進み、最高の聴かせどころであろう金藤次のモドリなんて、渾身の語りだった。客席の拍手が無かったのが不思議だったが、結局、萩の方のクドキのあたりから「さっきまでと別人ですか?」のような先細り感がそうさせてしまったとしたら残念。ここは越えてほしいところ。でないと、切場語りへの道は険しい。いやもう、難しいもんやね浄瑠璃は…。

「神泉苑の段」
口>咲寿、錦吾
咲寿くんも「口」とは言え、本公演で一人で床を任されるになったか…。と、彼の入門当時を思い出し感慨深く聴く。言い方悪く、本人は気に障ると思うけど、以前は「きゃんきゃんと子犬が吠えてる」ようにしか聴こえなかったけど、随分聴きやすくなった。

奧>咲甫、錦糸
ここは面白い場面。人形に客席は釘づけ。四川省の「川劇」で見られる「変面」のように、玉藻前の顔が妖狐に変わる「両面」という技法で娘の顔が狐の顔に早変わり。こりゃおもしろい。こういうのを公演前にもっともっとアピールしなけりゃ。咲甫はここ数公演でいつも感じるのだけど、聴くたびに師匠の咲さんに語り方が似てくる。錦糸師匠は嶋さんの引退で、誰と組むことになるのか、こちらにも興味津々。

「廊下の段」
始、清志郎
始大夫、珍しく掛け合い以外で床勤める。こっちの方が持ち味生かせそうな気がするが。清志郎は相変わらず生真面目さがにじみ出る奏で方。
舞台は玉藻前が光り輝くシーンに、客席は圧倒される。ここは輝かせ方で下品な場面になってしまう恐れがあるだけに、照明さん美術さん苦心の跡が見えた。

「訴訟の段」
睦、喜一朗
下世話な訴訟を傾城の亀菊が花魁言葉で裁くというコミカルな場面もあるが、それは次の悲劇への序章という難しい場だけど、よく聴かせた睦大夫。喜一朗がしっかり受け止めて好印象の床。

「祈りの段」
文字久、宗助
このコンビ、新鮮だった。妖狐と組んで日本を魔界のものにしょうと企む薄雲皇子に惨殺される亀菊。文字久の語りが生きたのは、前段での睦の奮闘もあってのことだろう。小生は床の下の席だから、浄瑠璃と三味線にほとんど集中しているが、多くのお客の目は人形に釘づけ。祈祷で追い詰められた妖狐の結末は…。狐らしく宙乗りで、いざさらば!
あと、狐の言葉、床本には「クワイ」、太夫は「カイ」。どっちが正しいんでしょうか? 文語と口語の違いということ? 誰ぞ教えて! ぼけ~っと聴いているようで、変なところ細かくてすまん、小姑みたいで。

「化粧殺生石の段(けわい・せっしょうせき)
床は太夫三味線がずらっと並んでにぎやかに。燕二郎くん、見つめてしまってごめんね。いや~、蝠聚会の三段目を思い出してしまってww。それはさておき。ここは何と言っても勘十郎、八面六臂の大活躍。妖狐含め八役の早変わりあれやこれやにお客さん大満足。思えば、この『玉藻前曦袂』はケレンの見せ場連続で、それはもう勘十郎のための演目と言う感じ。で、結局は、ここ数年同じ傾向で来ているのだけど、人形陣の充実ぶりがめざましいということに落ち着く。床、とりわけ太夫チームの一層の奮起を!

『玉藻前曦袂』については、文楽劇場のサイトで人物相関図が掲載されており、これを頭に入れて観劇に備えるのはよほどのお賢い方にしか無理なので、プリントアウトでもして持って行けばいいんだろうけど、ここまでやるなら番付=公演パンフに掲載してくれないか? 地下鉄梅田駅に文楽史上最大サイズの広告を出すのもいいが、この辺がどうも頓珍漢な気がしてならない。

このところ、時代物では簡素ではあっても相関図をパンフに載せていることが多かったので、「いい傾向」と思っていたら…。人目に付く広告の制作やサイトの充実はもちろん大事なことだけど、観劇中の参考資料としてのパンフをきちんとしてほしいところだ。

(平成27年11月5日 日本橋国立文楽劇場)





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