旧ブログ(http://leslieyoshi.iza.ne.jp/blog/)からこちらWordpressに引っ越し第一弾です。これが「六四」とはねぇ…。よっぽど好きなんでしょう、アタクシもこのテーマが。その割には、毎年同じようなこと書いてますが(笑)。引っ越した理由ですか? ちょっと雰囲気を変えたかったんですよね。まあ、あっちは閉鎖せず、開店休業状態で放置しておきますので、時々は見てやって下さいな。
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今年も「六四」、1989年6月4日の天安門事件の犠牲者を追悼する日がやってきた。香港では恒例の追悼集会がビクトリアパークで開催され、突然の大雨にもかかわらず15万人が参加したという(主催者発表人数)。
事件から早くも24年が経過した。香港で活動を支えてきた香港市民支援愛國民主運動聯合會(支聯會)の立ち位置も、ずいぶんと変化したと思うが、終始一貫して変わらぬのは、空しいまでに「事件を再評価し、犠牲者や民主活動家の名誉回復」を中共政府に訴え続けている点である。
すでに活動の象徴であった司徒華氏は世を去った。次の世代の香港民主派は、それぞれの思惑が入り乱れ、かつてのような一枚岩の様相を呈してはいない。小生に言わせれば、「汎民主派」という幻想が招いた、当然の結末というところだが…。
いつのころからか、「六四」も枝葉が広がって、時には「一体、これは何の集まりですか?」「で、このデモのテーマは何なんですか?」という「六四活動」も見受けられるようになった。これはひとえに、香港政府に対する市民の不満や怒りを表しているわけだが、本来の追悼集会、抗議デモの主眼である 「事件を再評価し、犠牲者や民主活動家の名誉回復」は、押され気味である。
その原因としては、当然ながら「香港政府および高官の不作為」、「大陸への政治的、心情的な不満」があるわけだが、「六四活動」の主力部隊がこの数年で、急速な若年化をみせている点に注目したい。
大陸で「80后、90后」といわている世代が非常に目立つようになった。返還(1997年)前後にはほとんど見かけなかった世代である。字を見ての通り、1980年代以降、90年代以降に生を受けた世代である。
大陸ではこの世代の農民工を「第二農民工」と言い、かつて中国の急速な発展を支えた「第一代」の子供たちの世代にあたる。農業をやったことがないのに、「農民戸籍」のために都市に受け入れてもらえない世代である。(『中国絶望工場の若者たち』福島香織著 参照)
これを香港の同世代に、強引にあてはめれば、「80后」でギリギリ、天安門事件をリアルな出来事として知ってるが、これとて幼いころの断片的な記憶にすぎず、全員が「天安門事件をリアルに知らない」世代、つまり「天安門事件を知らないのに、香港に生まれ育ったゆえに、『六四活動』をやっている世代」ということになるだろうか。これは支聯會の徹底したオルグ活動の成果なのか、はたまた、鬱屈した不満のなせるところなのかは、残念ながらこの世代に親しい香港人がいないから、はっきりしたことはわからない。
いずれはこの世代が六四活動にとどまらず、香港の民主活動の中核を担って行くわけだが、その継続性の信頼度はどうだろうか? 彼らが社会に出て、一連の活動が自分のビジネスを決して良い方向に導かないことを、まじまじとその肌身にしみて知ったとき、彼らはそれでも「平反六四」を叫び続けるのだろうか?
この世代そしてそれ以降の世代を導いてゆく支聯會と、活動に携わる80后、90后の「本気度」をこれから先、よく見て行きたいと思う。あくまでも「我々は本気だ!」ということを、中共政府にしっかりアピールし続けることこそ、香港が香港であるためのもっとも重要な行動だと思うので。
それにしても。ブログ引っ越しでいきなり「六四」だの「天安門」だのと、あちらの国で遮断される語句の連続ときたもんだ。のっけから遮断されてしまうのか?このブログ(笑)。
在大阪香港永久居民。
頑張らなくていい日々を模索して生きています。
さっきコメントさせていただきましたが、承認制なのでせうか、表示されませんね(汗)。
その後、パスワードを再申請してやっとログインできました凹凸♪。
あっちで読まれることを期待するなら記事はぜひともシナ語でお願いします♪。
コメント一番乗り、ありがとうございます!
まだまだ試行錯誤、何がどうなってるのかよくわかっていませんw。
そうですね、あっちでスクリーニングする人が読める言語で書かないとね…。