【SARS10年を回顧-12】*旧ブログ

SARS禍10年を振り返るという、やたらめったら長ったらしいシリーズです(笑)。
今回は、自分なりに作っていた「記録」が途絶えた4月11日までをざっとまとめつつ、「対応の遅れを認めた董建華行政長官」というポイントで、SARS禍を見ておきたいと思います。

【4月13日】
■就任したばかりの胡錦濤国家主席が急遽、広東省を視察。「謁見」のため馳せ参じた董建華(C.H.トン)行政長官に向かって、「SARS問題について、北京中央政府は香港を全面支持する」とのたもう。「なんとも畏れ多いお言葉を…」と、感謝感激の董建華。さらには、「残念ですが、香港はまだSARSを制圧できてません」と平身低頭。

突如、広東省を訪れた胡錦濤国家主席(当時)

*なんで一言、「本土でも徹底的に対策を!」とか、「正確なデータの公表をお願いしたい!」とか言ってくれなかったのか? 我々は、こういう人物に運命を託しているんだと思うと、絶望感しか残らない。香港は、すでに終わっているなあと、痛感したものです。

■行政長官夫人の董趙洪娉(ベティ・トン)が、香港赤十字社一行を率いて、集団感染のあった牛頭角公営団地を訪問。赤十字では、香港に70万人いるといわれる独居老人のために、家庭消毒薬とマスクを配布中。その一環として「最厳重地区」を訪れたのだが、まるで宇宙飛行士のような厳重装備は、「国際的イメージダウンにつながる」として、住民や世間の顰蹙を買うことに。

「宇宙服」と顰蹙買った、ベティさんの厳重地区訪問 これはねぇ…ww

*医療関係者は、累計で感染者が1000人を超えた事態に、大変な危機感を抱いていた。
最初に院内感染が爆発的に発生したウェールズ病院はじめ、香港の主要な公立病院では、集中治療室=ICUがパンク状態になっていた。また、前線で治療にあたる医師や看護婦も次々と感染しており、このころに行われたある調査では、4月初旬の勢い(1日当たり20~40人の感染者増)が続くと、4月末には、香港のあらゆる病院のICUが機能しなくなる事態が待ち受けていると報告した。

治療や看護にあたる関係者の「防護服」が、底をつこうとしていた医療スタッフの中には、家族への感染を心配し、1カ月近く、帰宅していない人も多い。政府はようやく4月15日、使用されていない政府所有の建物を、これらの人々に「有料で」貸し出すことを決定したが、なぜ、「有料」なのか? まったく理解しがたい決定事項でした。

勇敢なる戦士、それは救急隊、医療関係者! 「殉職」した方も多く…

ここまでの事態を招いた香港特別行政区政府の責任は重いものでした。

香港と同時期に、1人の女性が100人近い感染者を生み出したシンガポールでは、徹底した検疫体制を執行し、感染を最小限に抑えようとする努力に懸命でした。また、香港のお隣、マカオでは2月に広州で肺炎と流感が異常発生した際、徹底的に清掃と消毒を行い、この時点で明らかな感染者は確認されていませんでした。さらに、ベトナムでは事態は終息に向かおうとしていました。

香港政府では、SARS感染拡大に際し、様々なリーフレットを作成し、市民や旅行者に配布していました。また、テレビでも盛んに「あなたにもできるSARS感染拡大阻止」として、政府広報CMを流していました。とくにリーフレットは、国際都市らしく、繁体・簡体中文、英語、タガログ語、ヒンドゥー語、フランス語、ドイツ語、スワヒリ語、タイ語、日本語など多言語で作成。ただし、その内容には、不謹慎にも笑ってしまいました。

「外出から戻ったら、必ず液体石鹸で手洗を」、「漂白剤は1対99で薄めてください」、「咳やくしゃみをするときは、ティッシュで口を押さえましょう」、「使用済みのティッシュやマスクはビニール袋に包んで捨てましょう」、「所かまわず痰やつばを吐かないように」。おいおい、って感じだ。そんなことを政府が高い金かけて、広報せねばならないとは…。

そんな「努力」をあざ笑うかのように、九龍地区の集合マンション「淘大花園=アモイガーデン」に象徴されるような集団感染が、拡大の一途をたどりました。最初の院内感染、マンションでの集団感染、そして患者を受け入れた多くの病院での院内感染の繰り返し。原因はもちろん、SARSウイルスでしたが、一方で「人災」という一面も持っていた思います。香港政府は英国時代の香港政庁当時から、カネ関係の措置はそれなりに素早いのですが、そのほかの「危機」に関しては、かなりドジでして、SARSについても同様でした。

最初にウェールズ病院で、爆発的な院内感染が発生したとき、衛生署・陳馮富珍(マーガレット・チャン)署長は、大量感染の発端となったメトロポールホテルでの感染者確認からすでに時間が経過しており、その後の発症例がないとして、「病原体はすでに消滅した」と発言しました。このとき、適切な措置として、入院中の患者の隔離、患者の治療や看護にあたる医療スタッフへの感染防止の配慮があれば、その後のような事態にはなっていなかっただろうと、思われます。

初期の緩慢で安易な対応が、その後、世界中にウイルスを撒き散らすことになったわけです。

3月末には「社会常識」となったマスクの着用も、初期段階では「必要なし」としていました。結果、感染を知らずに人と会った感染者が次々と相手を巻き込み、あるいは、感染した家族をマスク無しで看病していた人へと、感染が拡大していくことに。

教育関係部局の対応も後手に回り、一部の学校で感染者を出してしまいました。集団で長時間過ごす学校は、ひとたび感染者が出ると、収拾がつかなくなるのは誰が考えても当たり前のこと。それでも教育署は、最後の最後まで全校休校の発令を渋っていました。一部の教育熱心な父兄から反対の声があったからだという噂もありましたが、それが真実とすれば、アタシには理解できないものですね。

結局、全校休校が発令されたのは淘大花園で集団感染が起きた翌々日の3月27日。この時点で、感染者は累計で367人に上り、翌日から予定されていたローリングストーンズのコンサートも無期延期となるなど、国際的にも「香港=危険地帯」の図式が、急速にに確立されていたわけです。

集団感染の淘大花園のブロックEでは、集団感染発覚から1週間経過した3月31日、ようやく同ブロックの建物丸ごとの隔離が実行されましたが、時すでに遅しでして、ブロックEだけで213人の感染者が出て、ようやくの隔離でした。翌4月1日には、淘大花園ブロックEの住民を全員隔離キャンプに移動させたのですが、隔離のタイミングが遅かったため、隔離政策実行前に、かなりの住民が同所から引っ越しており、その行方をすべて突き止めるのに約1週間を要します。結果、感染者数はついに1000人の大台を余裕で超えてしまうことに。

こうした対応のまずさについて、董長官は4月18日、ようやくその非を認めました。

19日に予定されている「全民清潔保健行動日」実施の記者会見の席上で、同長官は「淘大花園集団感染における政府対応は受動的だった」と率直に、非を認めました。一方で、「この6週間、当局は多角的にSARSを研究してきた。状況は予断を許さないが、ゆっくりではあるが成果は上っている。最後にはSARSに必ず打ち勝てる」とも。そう言いながらも董長官本人は、16日に教育署が22日からの段階的な学校再開を発表したとき、「自分の孫は再開されても幼稚園には行かせない」と発言していたのですから、「やっぱり孫を幼稚園に行かせられない状況なのか?」と、市民は一層の不信感を抱いたのです。

その教育機関の休校措置ですが、邦人子女が大挙して日本へ疎開した4月上旬よりも、それ以降、時間が進行するにつれ、事態が深刻化してゆきます。

たとえば、香港日本人学校(小学部2校、中学部1校)では、本来は4月15日始業式、16日入学式の予定でした。これを22日始業式、23日入学式に順延、その後、28日始業式、29日入学式に変更します。しかし、一向に事態が好転しない環境下での学校再開に、児童・生徒の安全面を考慮していないのかとの声が保護者や在住邦人の間での高まりもあったようで、4月24日には、改めて始業式と入学式をそれぞれ、5月13日と14日に行うと、発表しました。いずれの変更も、香港政府教育統籌局の香港地元教育機関への通達を参照したことによる二転三転だったのは、充分に理解できましたが、そのたびに、父兄のみなさんは混乱の度合いを高めていっており、見ていて気の毒なほどでありました。

日本人学校も、児童・生徒も、父兄も、だれも悪いわけじゃありません。まして、不幸にもSARSに感染した人も悪いわけじゃありません。ようするに、SARS対策で混迷を極める香港政府に、すべての人たちが振り回されたのです。

学校の安全性をアピールする教育統籌局長でしたが その後、学校再開の日が二転三転で子供も親も大混乱!

ではまた。


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