【私家版『二流文楽論』 その6】*旧ブログ

 さて、前回の締めくくりに、「二流」或いは「一流」の解釈は次回で行う旨申し上げたけど、その間にも何某は色々と「課題」を投げかけてくださるので、なかなか次の論をまとめるに至らないのが実情。課題が出されるたびに、「ほんにお前というやつは」と、がっくり来てそっちの方に思考が回ってしまうのである。罪なお方である。

 御存じの方も多いが、何某の市長は夜な夜なTwitter上に現われては、持論を展開されるのであるが、こと文楽については、「珍説」の数々を繰り広げられ、もはや、爆笑ネタをご提供されているとしか思えないのである。せっかく教育問題など小生が高く評価している事柄を述べても、その後にあの「珍説」の数々では、全ての評価が吹っ飛んでしまうのであるからその点は甚だお気の毒である。

その珍説の数々を眺めていて気付いたことがある。「なんと、お主は今頃そんなことに気付いたのか」と言われるかもしれないが、結論からまず言えば、何某は「文楽が古典芸能或いは伝統芸能」であっては困るのだ、「文楽は大衆芸能」でなくては困るのだということ。何某はそれをはっきりと自分で言っている。

―文楽なんて、もともとは庶民が観ていたもの、大衆芸能です。庶民感覚を離れてしまえば、文楽ではなくなります。

―文楽は大衆芸能です。観客を楽しませて、喜ばせてなんぼのものという意識になれるか。

―僕は文楽の芸術性、技の素晴らしさは理解しているつもりですが、本質は大衆芸能。そこを外すとそもそもの存在意義が成り立たなくなります。

 ―そして行政関係者が文楽を大衆芸能だと位置付け直すことが必要だと思います。

(以上は大阪市HPの「文楽のあり方等に関する市長・特別顧問・特別参与のメールでの検討状況より)

このようにやたらと「大衆芸能」を多発するけれど、文楽が大衆芸能だったのかどうかは、小生の理解の中では実ははっきりしていない。何某はどのような根拠で「文楽は庶民が見ていた大衆芸能」だと言うのだろう…。ぜひともご教授願いたい。そこが知りたい!

しかし、オダサクの言うような大阪の庶民と一部の好事家相手の町人芸術だったことには違いないだろう。前回紹介した祖母が年に数回の楽しみで朝日座に行っていたころ、すなわち40数年前にはその地位すら風前の灯だったと思う。恐らくすでに「町人芸術性」は喪失していたんじゃないかと思う。そうだった時代をかすかに知るわずかな人たちが町人芸術としての人形浄瑠璃芝居を愛好し、そのほか多くはオダサクの言う「文化人」が古典芸能・伝統芸能としての「文楽」として支えて来たのだと思う。

後で取り上げようと思っていたが、出し惜しみは良くないので、ここで取り上げることにするのは、有吉佐和子の『一の糸』の一節である。芸道一筋に生きた文楽三味線弾きと激しく愛に生きたその妻の一代記に、『二流文楽論』と同じく、終戦後の文楽界の状況を語っている場面がある。 

 

戦後、興行会社は四ツ橋の文楽座をどの劇場よりも早く再建した。戦争中、休んでゆっくり疎開していた歌舞伎の役者たちと違って、終戦の前の月まで語り続け、弾き続け、遣り続けてきたのは文楽の人間だけであった。文楽座は終戦の年の三月に焼けたが、その後は朝日会館で頑張り抜いたのである。しかも、戦塵おさまらない中で再び朝日会館で旗上げしたのも文楽であり、他のどんな劇場芸術よりも早く彼らは立ち上がったのだ。長く時代に迎えられない中で鍛え上げた大阪の芸人のど根性というものであったろう。

もっとも文楽が他の諸演劇に較べて大衆受けしないところから多くの難を逃れていたということも云えないわけではなかった。

(略)

大劇場には向かない舞台芸術である文楽は、興行的には客の入りがよくても決して儲かるものではなかった。興行師の義侠心と文楽の人たちの執念がよりあわされて続いていたと云っても云い過ぎではないだろう。

 

終戦後いち早く興行を再開した文楽だが、それは文楽が「大衆受け」しなかったことが幸いして、多くの難を逃れたからだろうと言う。そして客入りとは関係なく文楽は儲からない興行であり、興行師の義侠心と文楽人の執念で続いているものであるとも言う。このくだりを読めば、戦前から終戦後、いやもっと以前より文楽は「大衆芸能」などではなかったことがわかる。何某の市長は「庶民感覚を離れてしまえば文楽ではなくなる」なんて気障に言うが、このあたりを読む限り、そんなことは軽々しく口にはできないはずだが、別に何か根拠があるのだろうか…。

いずれにしろ、文楽はもうかなりの昔から「大衆芸能」ではなかったわけで、そうなればもはや何某がどれほど「大衆芸能」として位置付けたがっても、それはあくまで彼個人の願望であり、大衆が迎合する方向には向いていないだろう。大衆はずっと以前から「大衆芸能」でなかった文楽がいまさら「大衆芸能」として「新たな格付け」をされても、戸惑うだけであり、しらけるだけである。「文楽は文楽でしょう?」と言うものだろう。たとえ文楽がかつては、オダサクの言うような大阪の庶民と一部の好事家相手の町人芸術であったとしても、今の大衆は文楽にそういうものは求めないであろうと思う。

では、何故、何某は文楽が「大衆芸能」であってほしいと願うのか。言うまでもないことで、「保護の対象」であっては困るのである。行政が保護せねばならない文化・芸能であるところの文楽は、何某にとっては存在が許されぬものであり、「大衆芸能」であればこそ何某のハンドリングによってその「存在価値」を左右できるのである。それは本人自身も以下のように断言している。

行政関係者が文楽を大衆芸能だと位置付け直すことが必要だと思います。

ユネスコの世界無形文化遺産であり、国の重要無形文化財である文楽を「大衆芸能」化させようという壮大な「野望」の背景は、およそこんなものではないかと思う。

一方で文楽の側は、こうした言動に振り回されて「大衆芸能」へ転身などする必要はまったくなく(もちろん考えていないと思う)、文楽は文楽であり続ければよい。よく何某は、「杉本文楽」や「三谷文楽」を例えに上げるが、それらとて「文楽」のひとつの演目にすぎず、決して「大衆芸能」ではない。太夫がいて三味線弾きがいて、人形遣いがいる、「古典芸能」としての文楽に他ならない。その点を何某の市長とブレーンは履き違えている。どう考えてどのように見るかはもちろん個人の勝手であるけど、その「個人の勝手」を喧伝して、一つの芸能をコントロールしようかという姿勢が反発を食らっているのである。

とにかく「珍説」が多いのだが、ここでひとつひとつ紹介する気もないが、ほとんど毎夜のようにTwitterで「ネタ披露」される。その豊富なネタ数には恐れ入る。が、結局言っていることは「文楽を大衆芸能にしたい」という野望だけである。

本来、明らかに問題視すべきは「文楽協会」という「天下りと補助金の受け皿」であり、「文楽という芸」ではないのに、こんなにこじれてしまうのは、その野望があるからであろう。

 

そしてまた今回も「一流、二流」の論に触れるに至らなかった。残念である! そして毎度支離滅裂で相すまぬ。

 

<第6章 終わり>


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