【1997年2月18日-その2】
このころ、小生は大阪の某夕刊紙に返還前のそれこそ「どがちゃが」を連載させていただいておりました。その某夕刊紙の営業レディーが、キャセイ航空の招待で香港にやってきました。
Leslie「どっか行きたいとこないんけ?」
レディー「ナイター競馬見たいでしゅ~」
ってことでハッピーバレー競馬場へご案内。冬の冷えた空気に芝がカクテル光線で照らされ、そりゃ美しいもんです。
レディー「お馬さんいっぱい!!」
Leslie「あたりまえじゃ!」
レディーは、そこそこ小遣い稼ぎができ、ご満悦でした。
そして。。。
【2月19日】
小生は朝の目覚ましにラジオを大音量でセットしているのですが、そいつがいきなり「たんしうぴん」という言葉を繰り返しています。「たんしうぴん」が徐々に頭の中で漢字になってゆきます。
「鄧しうぴん」「鄧小ぴん」「鄧小平」、、、
「ありゃ、死んじゃった」。まどろんでいるうちに、某夕刊紙報道部長からお電話が。
「どないや?そっちは?」
「は?あ、今起きたとこで…テレビ観てからまた連絡します」
通勤途上ですべての新聞を購入。会社で香港人スタッフにインタビュー。が、これがまったく手ごたえなし。
「おじいさんでしょ、興味ないな」
「香港には関係ないし、株も下がらないよ」
「過去の人だから、どーでもいいよ」
「93歳、大往生!ヤツも満足だろう」
これでは、某夕刊紙へ原稿書けないよ~。まあ、1960年代に生まれた我々世代の香港人にとっては、こんなイメージなんでしょう、って感じで原稿は送りましたが…。
当時の職場から徒歩5分のところに新華社がありまして、当然半旗が掲げられ、あっという間に供花がビルを取り巻いていました。
余談ながら、件の営業レディーはみやげ物購入に夢中で、この歴史的な日の香港地元紙を買わずに帰国したのでした…。
この日送ったもうひとつの原稿で小生は確かですね、「香港返還の『プロデューサー』は自らがプロデュースした『ドラマ』を見ることなく世を去った。シナリオの変更もあるかもしれない。『ドラマ』の行方を見守りたい」みたいなことを書いたはずです。変更なんてあるはずないのに…って後で苦笑したものです。
【2月20日】
◇董建華(C.H.トン)氏(7月以降行政長官)が返還後の香港特別行政区高官リストを発表
◇鄧小平氏の死を悼み、2000人以上が新華社へ弔問に。激しい罵倒合戦を繰り広げていたパッテン総督が就任後、初めて新華社を訪れ周南社長と握手。民主党は「天安門事件で民衆を鎮圧したことが、鄧氏の輝ける業績の中の唯一の汚点」とコメント。株は300ポイント上昇。
さすが香港と思ったのは、テレビのコメンテーターは揃って「政治は語らず、経済を語る」のみ。興味の矛先はすぐにそっちへ向いていたのには感心しました。
そしてこの日からしばらくは会社周辺、要するに新華社近辺は弔問客でごった返すことになります。
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COMMENT:
AUTHOR: 丸山光三
DATE: 02/15/2007 18:32:51
返還前はやはり緊張感が欠けていたと、なるほど。
で返還後はいかが?
やはり少しは北京の政治情勢に緊張感を持つようになってますか?
まあしかし香港人だから無理かな?考えてみればその無力感は理解できるのですが・・・・。
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COMMENT:
AUTHOR: leslieyoshi
DATE: 02/15/2007 19:28:05
To マルコおいちゃんさん
>返還前はやはり緊張感が欠けていたと、なるほど。
>で返還後はいかが?
緊張感欠如というよりも、まるで「他人事」でした。女王デザインの切手なんかでも最終日は行列でしたが、結局「後で高く売れるだろう」という目論見。すべてがこんな気分で返還の日を迎えたんです。
>やはり少しは北京の政治情勢に緊張感を持つようになってますか?
民主派がミスリードして、デモや座り込みが横行していますね、返還後は。もっともこの手法しか自分たちの思いを伝えることができないという現実に哀れも感じます。完全普通選挙の施行もいつのことやらという状況ですし。
>まあしかし香港人だから無理かな?考えてみればその無力感は理解できるのですが・・・・。
そう、無力感です。返還前も後も、無力感に大きな変わりはありません。ただ、返還前はなんだかんだ言ってもレッセフェールやコモンローの下で100%に近い自由はありました。いまもその点は変わっていないのに、何なんでしょう、息苦しさは? 植民地から国家の枠組みの一部に組み替えられたからですかね? もちょっと探ってみます、その辺は。
在大阪香港永久居民。
頑張らなくていい日々を模索して生きています。