<厳冬に雪化粧した壺井八幡宮。母校に在学中も、何度か積雪の日があった。ちなみに、大阪でっせ、ここ(笑)。母校まではバリバリ大阪市内の自宅から1時間弱でっせ(笑)。 ©壺井八幡宮「X」>
■まずは長すぎる前説を(笑)。
既報の通り、左足のくるぶしを骨折し、ボルトで固定する手術を行い、入院生活1か月とちょいという、思ってもみなかった“惨事”に見舞われた。退院後も「近所周り20分ほど杖ついて散歩するくらいに留めとき」と言われていた。とは言うものの、ちょいとは“冒険”もええんちゃうかという自己判断で、谷町4丁目の大阪歴史博物館まで行ってみた。やっぱりちょっと負担かけすぎたのか、痛みというほどではないけど、「まだ無理はできんな」という「イヤ~な感じ」が左足に残る…。やっぱり当面は大人しくしてます(泣)。
で、大阪歴史博物館に何しに行ってきたかというと、この日が最終日となった《特別企画展「河内源氏と壺井八幡宮」》を見てきたのである。「壺井八幡宮?何それ?」なんて言うなかれ、我が母校大阪府立羽曳野高等学校(現・懐風館高校)の近隣の村にある、めっちゃ由緒あるお宮さんである上、とにかく体育の時間は山道をひたすら「走れ!走れ!」な野性味溢れる学校だった我が母校には、いくつかのマラソンコースがあり、そのうちの一つ「宮さんコース」のコース名の由来となった神社でもある。なので、小生はもちろん、羽曳高(はびこう)生には懐かしい場所の一つだ。
そんなわけで、当時の羽曳高生は壺井八幡宮の存在は認識していたし、壺井の村は源氏発祥の地であり、源氏三代の墓もある、ってことも多くの生徒は認識してた(はずww)。日本史の時間に教科書に載ってもないのに、わざわざ教えるし、3年生の時にはプチ遠足みたいな感じで、壺井八幡宮、源氏三代の墓などを巡る校外学習があったのを覚えている。
小生にとって、そんな曰く因縁のある壺井八幡宮の特別展に行かないはずはないだろう。運悪く、開催期間の大半が入院生活と重なってしまい、なんとか最終日に駆け込むことができて、少しは壺井八幡宮に顔向けできる(笑)。
前置きがめちゃくちゃ長くなってしまったが、そういうのに行ってきたので、少し触れておきたい。
※この先は、同展の特別サイトやリーフレットからの引用文や参考文が続くこと、まずはお断り申す。
※展示物は撮影OKだったので、割と色々と撮影した。なお、図録は販売されていなかった。
■武士の故郷は、大阪にあり。
1000年の時を超えて、武士の故郷へ─
この展覧会では、前九年・後三年合戦で活躍した「八幡太郎」源義家(よしいえ)や、源頼朝・義経兄弟、足利尊氏らを輩出した一族「河内源氏」と、彼らの祖・源頼信(よりのぶ)が拠点と定めた河内国壺井(現大阪府羽曳野市壺井)の地を、次の二つのストーリーを主軸に紹介する。武士の世の起源を作った河内源氏一族の壮大な系譜と、壺井の地に今も息づく伝承を、貴重な資料とともに深く掘り下げている。
~伝承される河内源氏の魂~
「平将門の乱」平定に功のあった源経基(つねもと)。その孫である頼信は河内国壺井に拠点を構え、晩年には河内守に就任したため、後世その血脈は河内源氏と呼ばれた。武士の世を切り拓いた彼らの活躍は様々な形で語り継がれ、人々に強く刻まれる。本展では館蔵品を中心に、「河内源氏」の活躍と伝承を概観。
~源氏のロマンあふれる地、壺井~
頼信の子、頼義は壺井の整備を進め、一族の氏神・菩提寺として壺井八幡宮・通法寺を建立した。このうち通法寺は廃仏毀釈の影響で廃寺となるも、壺井八幡宮は歴史の荒波を乗り越えて現在も壺井の地に鎮座し、「木造僧形八幡神及諸神坐像」(重要文化財)、「太刀 銘安綱(号 天光丸)」(重要美術品)をはじめとした名宝を守り伝えている。八幡宮所蔵の品々を中心に、河内源氏ゆかりの地・壺井の歴史を紹介。

↑↑↑「八幡神像」なのに、高尚な僧侶のようないでたち。「神仏習合」の思想により、八幡神を剃髪し袈裟を着た僧の姿で表現することが行われた。本作もその一つで、現在は神功皇后像、男神像、童子像とともに、壺氏八幡宮に納められている。

↑↑↑「下げみずら」をした童子の面相と、首回りに装飾環を掛ける女性的な装いを併せ持つ。神功皇后が男装で出征した伝説を取り入れたと考えられる。
↓↓↓束帯姿の男性を模った寄木造の木造で、仲哀天皇像とされる。壺井八幡宮の御祭神三神<誉田別尊(ほんだわけのみこと=応神天皇)、神功皇后(じんぐうこうごう)、仲哀天皇(ちゅうあいてんのう)>が、仏教的な色合いの強いこのような形で存在しているのが、神仏習合を象徴していて珍しいと思うが、そないに珍しないんか? わからんけど…(笑)
木造男神像(もくぞうだんしんぞう) 正平9年(1354)3月20日・壺井八幡宮蔵 重要文化財

↑↑↑胴丸とは甲冑の一種で、足の動きを妨げない作りのため、大鎧を着た騎馬の上級武士に従う徒歩の武士が着るものだったが、徒歩による戦が盛んになると、軽快さから上級武士にも好まれるようになった。展示では、保存のためか、壺袖は外されていた。しかし、これが奉納のためにのみ作った、今で言う「レプリカ」でなく、実際に着用されたものだとすれば、当時の武士のサイズ感が浮かんでくる。「めっちゃ小さかった」んだと…。
↓↓↓甲冑があれば刀もあります! 安綱は日本刀草創期を代表する刀工の一人で、伯耆国を拠点とした。本作は『河内名所図会』壺井八幡宮の項に「天光丸太刀」として紹介されており、同じ鉄で作られた「鬼切丸」とは雌雄の太刀だと紹介されている。写真が下手ですんません。実際はすごくカッコいい刀です。八幡太郎こと源義家の佩刀と言われるが、本展ではその説明はなかったなぁ…。

さて、文楽でも何度か壺井八幡宮の名が登場して、「おや!」と思うことがある。拙ブログで検索してみたら、『碁太平記白石噺(ごたいへいきしらいしばなし)』の「新吉原揚屋の段」で、奥州から巡礼姿で、吉原で奉公しているという姉を探して出てきた「おのぶ」と、その姉で今や吉原は大黒屋のナンバーワン・傾城宮城野の再会シーンで、
…首にかけまく壺井の守り
「アゝコレこの妹が国を出る時、母様が大事にせいと下さんしたこの守り、父様は楠家の御浪人故、河内の国壺井八幡様のお守り…
という一節がある。そこでも記したが、楠公、すなわち楠木正成が、壺井八幡宮を信仰していたかどうかについては、小生は史実を知りえなかったし、正成自身は「摩利支天」を信仰していたので、どうなんだろうね~なんて思ってたんだが、本展では楠木氏ゆかりの品が展示されていて、「あ!そうなんや!」とね。
まず一つは、「楠木正儀下文」<正平9年(1354)9月23日 壺井八幡宮蔵>。正儀(まさのり)は正成の三男。長男・正行、次男・正時は共に四條畷の戦いで討死したため、若くして家督を継ぎ、後には南朝の重臣として活躍。その系統が絶家まで後世に続く。うっかりして、撮影を忘れた(笑)。
二つ目の楠木氏ゆかりの品は、「楠公菊水旗」。楠公さんと言えば菊水、菊水と言えば楠公さんというくらい、楠公のシンボルが「菊水」の紋。

そうそう、この家紋! そして正成が信仰していた「摩利支天」の文字。『河内名所図会』には1347年の「藤井寺合戦」に際し、息子の正行が奉納したという「楠公菊水旗」が紹介されている。これがそうなのか!?
かくの如く、武家から信仰される壺井八幡宮だが、その原点となる「河内源氏」、「源氏三代」とは…。
■河内源氏──武士のはじまりはここから
平安中期、清和天皇をルーツとする清和源氏・源満仲が摂津国川辺郡多田荘(現兵庫県川西市・宝塚市・三田市・猪名川町周辺)に土着し、子の頼光・頼親・頼信とともに、当時栄華を極めた藤原摂関家に伺候し、繁栄のきっかけを掴む。父を継承し、摂津を拠点とした頼光(摂津源氏)、大和に進出した頼親(大和源氏)に対し、三男の頼信は河内に進出したことから、頼信以降の系統を「河内源氏」と呼ぶ。
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河内源氏初代の頼信は関東の戦乱を鎮め、二代・頼義は奥州での「前九年の役」を平定する。そして三代・義家は「後三年の役」を戦い抜き、その活躍は「天下第一武勇之士」と讃えられた。やがて河内源氏からは鎌倉幕府を開いた源頼朝や、室町幕府を開いた足利尊氏が出、「武家の棟梁」としての地位を確固たるものにする。

河内源氏は戦国時代にも、細川氏・武田氏・今川氏・佐竹氏ら有力な大名を輩出したほか、徳川家康のように、自身の出自を河内源氏に求める武士も現れた。その家康が江戸幕府を開くと、河内源氏の血脈はいよいよ神格化されていく。
■壺井八幡宮、その知られざる姿
羽曳野市壺井は、頼信・頼義・義家ら河内源氏三代の本拠地。二代・源頼義のころ、壺井の整備は進み、菩提寺である通法寺や、石清水八幡宮を勧請した壺井八幡宮が創設され、河内源氏の「聖地」としての性質も帯びるようになる。壺井八幡宮に伝わる資料からは、鎌倉~室町時代にかけて武士による寄進や安全保障が繰り返し行われてきたことが知られ、その信仰が中世を通じて維持されたことが伺える。また、「前九年の役」の際に源義家が弓で岩壁を突き、冷泉を得たという「壺井水」の伝説は、この地と源氏の武勇、そして神聖な繋がりを今に伝えている。
~壺井八幡宮について~
骨折が治癒した後に、さっそく参拝しようと思っているので、ざっと触れておくに留めておく。
康平7年(1064)、源頼義が前九年の役に出陣する際、戦勝を祈願した京都の石清水八幡宮の神霊を勧請して、壺井にある私邸の東側に祀ったのが始まりとされている。のちに頼義・義家以降も代々の源氏から篤い信仰を受ける。現在の姿は、元禄14年(1701)に徳川綱吉の命により柳沢吉保が復興したものをベースとしている。
《御祭神》
・誉田別尊(ほんだわけのみこと) ※応神天皇
・神功皇后(じんぐうこうごう)
・仲哀天皇(ちゅうあいてんのう)
《境内摂社》
・壺井権現社 河内源氏の三代である源頼信・源頼義・源義家を祀る
~通法寺について~
河内源氏三代の菩提寺である通法寺は、現在はわずかな遺構を残すのみだが、三代が眠る墓は、時代を通じてしっかりと保存されており、「河内源氏三代の墓」として、その姿に河内源氏のこの地での栄華に思いを馳せることができる。また、今回は紹介されていなかったが、徳川綱吉のブレーンの一人で、「生類憐みの令」発令を勧めたとされる僧隆光の墓所も近隣にあるので、壺井を訪れた際には見逃さないでほしい。

↑↑↑源氏の白旗。「しろはた」「しらはた」どっちでもOK。文楽の『源平布引滝』歌舞伎『実盛物語』でなじみ深い。そして八幡宮と言えば、鳩。八幡神の「神使」として古くから大切にされている。宇佐八幡宮から石清水八幡宮へ神様を迎える際に白い鳩が道案内をしたという伝承が由来で、勝利や導きの象徴とされている。ってことで、「八」の部分が鳩になっている。『河内名所図会』には「大小二タ流(ふたりゅう) 源氏重代の白旗なり」とあり、現在も壺井八幡宮には、これともう一流の白旗が伝わっている。
ちなみに、「白旗」と言うと、「降参しま~す」の旗と思われがちだが、源平の戦においては、あくまで目印、シンボルカラー。源氏が白旗、平氏が紅旗をそれぞれシンボルカラーとして戦った。現在の「紅白歌合戦」や、プロ野球キャンプでの「紅白戦」の原点。
とにかく壺井八幡宮所蔵の至宝、河内源氏関連の史料がずらっと公開されていて、すべてをしっかり写真に収めていたら、閉館時間過ぎてしまいかねないくらい。マジで一つ一つをじっくりと拝見していたら、期間中に何度も訪れることになっただろう。だがしかし…。無念かな、開催期間に合わせるように入院していたんだから、どうしようもないわな…。
繰り返すが、骨折が完治したら、壺井八幡宮を参拝し、運が良ければ宮司さんをつかまえて、色々とお話を伺いたいと思う。なんか面白そうな人やし(笑)。
では最後に、会場に掲出されていたこちらの「源頼信墓所」の写真を。
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10年ほど前に読んで、「これはいとおもしろし!」と感激した一冊。 |
在大阪香港永久居民。
頑張らなくていい日々を模索して生きています。

