意外と人気番組多い香港電台
特区政府筋でありながら、特区政府や北京中央政府への批判の目も忘れてはいない、と思わせる節も時々見せる公共放送局が「香港電台=Radio Television Hong Kong」、通称・RTHKである。1928年にラジオの放送を開始し、1970年からはテレビ部門を設置、政府広報番組や教育番組の制作を開始したが、自前のチャンネルは持たずに無綫電視(TVB)と亞洲電視(ATV)、さらにはケーブルテレビに自局制作番組の放映を委託していた。2016年からはATVの停波により、独立した地上波二波とCCTVのテレビ放映を行っている。その立ち位置から、政府広報番組や議会生中継、教育番組が多いが、ドキュメントやドラマでも意外と人気番組が多い。
ドキュメント番組の草分け『鏗鏘集=Hong Kong Connection』
その代表的存在、『鏗鏘集=Hong Kong Connection』は香港のドキュメント番組の草分け的存在で、根強い人気がある。香港の時事問題はもちろん、大陸、台湾や日本など海外まで、番組で取り上げる国もテーマも多岐にわたる。総じて、骨太の内容で、そのために物議を醸すこともあるが、視聴率独占状態の民放地上波であるTVBが、この手の番組から完全に手を引いてしまった今、非常に貴重な存在である。
幸い、podcastで毎週配信されるので、小生は在住時同様に、今もこの番組を欠かさずに視聴している。
もちろん、やるだろうと思っていたが、やはり「主権移交20周年」関連を4週にわたって放映した。うち3回は「回歸廿周年系列」として3つのテーマで、返還から20年が経過した香港を取材している。非常にクオリティの高い3篇であり、そのために考えさせられる内容になっている。今回はこの『鏗鏘集』の「回歸廿周年系列」から拾ったネタをいくつかご紹介する。
香港と深圳の関係から見た20年
1「近くて遠きは、香港と中国」返還から20年、進む緊密化と拡大する矛盾について、二人の青年を通じてさぐる。
週に3、4回、香港の自宅から深圳のオフィスまでタクシーとバスを乗り継ぎ、4時間かけて通勤する青年。境界をまたいでの通勤は、大きな問題でもなく特別なこととも思っていないと言う。向かう先は「中国(広東)自由貿易試験区」。中国政府が設置した広東省と香港の合作を推進するエリアである。彼は2年前に、ここに自身が立ち上げたIT企業のマーケティング部門を置き、現地スタッフを雇用し、本格的な本土進出の機会を狙う。香港でもオフィス探しはしたものの、家賃が高すぎて話にならなかったが、ここでは香港の約10分の1で借りることができるのだと言う。
ま、彼の働き方が、返還が生んだ悪しき現象としてとらえてしまうのは間違いだし、番組もそういう伝え方はしていない。この20年で、若い人のワーキングスタイルに、こういう選択肢も出現したというとらえ方でいいんではないだろうか。
そもそも香港人が、境界を越えて広東省で仕事をするのは今に始まった話ではなく、「前店後廠」—前=香港で売る、後=広東省で作る、という言葉があったくらいで、改革開放当時からよくある話ではある。返還以降、特に2003年のSARS復興支援での様々な経済緊密化政策、さらには中国の経済規模の拡大で、内地での商売のハードルがぐっと下がった結果のことだろう。彼が言うように、香港の家賃が現在のような状況である限り、大陸側で起業する香港人はますます増えるだろう。ただ、香港にも一定の利益がもたらされるようには考えてほしいけどな…。そこはもう、個人の裁量ということになるか?
もう一人は、深圳との境界に近い元朗(Yuen Long)に住む青年。生活上、内地と香港の距離は非常に接近したと実感している。これもまた03年のSARS復興支援の一環として、大陸人のビザなし香港個人旅行が大幅に緩和されると同時に、日用品を買い漁る大陸人の数が目に見えて激増したのを目の当たりにしているからだ。
深圳で起業の彼は、中・港の経済緊密化政策を上手く利用したが、経済緊密化の弊害は見逃せない。2014年の「雨傘行動」など若者の嫌中意識が先鋭化している背景には、経済緊密化により、香港に大挙押し寄せて、香港の日用品を買い漁り、不動産物件を投機目的で買い漁り、香港が出生地至上主義なのに目をつけて、産婦人科のベッドが不足するほど香港で出産し、我が子に香港籍を持たせようとする等々、「やりたい放題」な大陸人への反感がある。今後も間断なく経済緊密化は進められると思うので、それによって増大する矛盾や反感を、どう鎮めるのか、そのやり方次第では第二、第三の「雨傘」が起きるのは避けられないだろう。その時、中国はどんな力を使ってくるのだろうか?
彼の父親は、46年前に元朗郊外の干潟を腰まで泥につかって、這うようにして深圳からやって来た密航者だった。当時の香港は、「タッチベース政策」をとっており、新界以南で密航者が発見されても強制送還されず、居住権が与えられていた(1980年廃止)。「当時の英領香港は自由を謳歌し、成功するチャンスはいくらでもあった。深圳は何もない土地だった」と父親は言う。画面は、超高層ビルが林立し、光り輝く深圳と、当時と何も変わらず干潟のままの香港を映す。立場がすっかり逆転してしまった深圳と香港の関係を暗喩するかのように…。
艾敬の『我的1997』は、今は昔となりにけり…
番組後半、北京の若いビジネスウーマンは語る。「1997年当時、艾敬の『我的1997』が大ヒットし、みんな香港へ憧れていました。私も2000年に初めて香港へ行き、ときめいたものですが、今やだれもが香港旅行できるようになり、あの当時に抱いたような香港への憧れはありません。香港は特別な所ではなくなりました」
そう、この20年で香港は大陸人にとって「特別な場所」ではなくなってしまったのである…。
1997快些到吧 八佰伴究竟是甚麼樣
(早く来て、1997年 ヤオハンって本当はどんなところ?)
1997快些到吧 我就可以去HONG KONG
(早く来て、1997年 HONG KONGに行けるわ)
1997快些到吧 讓我站在紅勘體育館
(早く来て、1997年 私を香港コロシアムに立たせて)
1997快些到吧 和他去看午夜場
(早く来て、1997年 彼と一緒にレイトショーを見に行くの)
香港の若者が語る未来像は悲観的
最後に二人の青年が語る香港の未来像。
深圳にオフィスを構える青年は、「街を眺めれば、雲呑麺屋や牛腩(牛バラ肉)麺屋は次々と貴金属店や高級時計店に変わっていっている。内地との融合化はまだまだ進むだろうし、早晩、香港文化の独自性は消失するだろう」と。「自分の子供は中学校から海外に留学させたい」。
元朗に住む青年も「近いうちに、越境して深圳に行くことは、九龍の旺角(Mong Konk)に行くことと変わりはなくなるだろう。境界ももっと曖昧になるだろう。(50年不変が終わる)2047年、スターフェリーから見える香港の文字も、(広東語読みの)『ホンコン』ではなく(標準中国語読みの)『シアンガン』になってるだろう」と。「子供たちが大人になっても繁体字と広東語を使う香港であってほしい」。
台頭する「新香港人」
この番組を見て思い出したのは、6月29日夜、NHKのBS1『国際報道2017』での返還20周年特集の一こまだった。返還以降、香港に移住してきた大陸人を「新香港人」と呼び、その数はすでに120万人以上と言われいている。人口700万強に120万。返還当時、香港の人口は約600万ちょいと言われていたと記憶するが、それと比べると増加した人口のほとんどは大陸からの移住者である。
香港の大学に進学し、そのまま香港で就職する大陸出身の若者も激増している。彼らは独自コミュニティーを持ち、香港人と交わることもしない。それでOKとも言う。現在の香港については「一国両制度はうまくいっている」「独立を主張する香港人もいるが、どうせ何もできないから放っておけばいい」「将来を楽観的にみている。ずっと香港で仕事を続けたい」等々、言いたい放題である。何よりも小生が衝撃を受けたのは、「香港人は大陸の人間が香港人から家や仕事を奪っていると言うが、彼らが何も努力をしていないだけだ」という発言。相当カチンときた。香港人はいつも努力している。なのに、こんな風に思われているのかと…。あまりにも虚しい、悔しい…。香港人に対しては、時にイラッと来るけど、あんなに働いて今の香港を築き上げて来たのに…。
『鏗鏘集』が取材した二人の香港人青年は、生き方に違いはあれども、香港の将来には、あまり明るいものは感じておらず、「それが香港の運命」と諦観さえしているようでもあったが、「新香港人」の若者たちは、反対に「香港は自分たちの街」と言い、自信に満ち溢れていた。いずれ、彼らが香港社会で強い発言権を持つ日が来るだろう。なるほど、「一国両制度」は中国としては上々な推移を見せているということだろう。「香港返還」とは、こういうことなんだなぁと、わかっていても、釈然としないのである…。
と、悲観してみたが、考えてみると、46年前に泥まみれで密航して香港人になったという、二人目の青年の父親もまた、大陸から香港へ来て根を張って生きてきたのである。まさに、香港が一気に経済成長した時期を支えてきた世代である。70年代以降の香港の経済発展を支えた力の一角を、大陸からの密航者が占めていたということでもある。今また、大陸からの「新香港人」が同じようなポジションに就こうとしている。それぞれの状況は全く違うけど、結局この街の発展には大陸から来た人たちが、大きく寄与していることになる。時代は巡り、繰り返されるということか…。
ま、香港主権移交20周年記念花火大会でも見て、心を少しでも落ち着かせるか…。香港のみなさんも「それはそれ、これはこれ」で楽しんでいるようだしね。
在大阪香港永久居民。
頑張らなくていい日々を模索して生きています。