【睇戲】『太陽の子』(台題=太陽的孩子)

『太陽の子』
(台題=太陽的孩子)

少し前の話になるが、地道な自主上映活動が続く台湾映画『太陽の子(原題=太陽的孩子)』の上映会が大阪でも開催されたので行ってきた。

やはり台湾映画はこの手の、「アイデンティティーを求めて」のような作品が一つのトレンドと言うか、台湾映画の大きな柱として確立されているようで、この作品もそのひとつと言える。

一口に「アイデンティティー」と言っても台湾のそれは複雑だ。戦前から台湾に住んでいる「本省人」、戦後に国民党政権とともに大陸から逃れてきた「外省人」。この二者の間には今日に至ってもなお、埋めることのできない溝がある。この対立はあくまで中華系内での話だが、ここに台湾が「誰もの」でもなかった時代から暮らしてきた「先住民族」の存在が加わってくる。そのいずれもが「自己のアイデンティティー」について考え、悩み、発言、表現する。摩擦や対立を生むことしかなかったこの問題が、若い世代や新しい志向の政治家の出現などにより、「アイデンティティー」という言葉を取り巻く風景に大きな変化のうねりが訪れているのが、ここ何年かの台湾社会ではないかと思う。

とりわけ、蔡英文総統による先住民に対する謝罪は、大きな転換期の象徴のようなものだったと思う。

現在、台湾には政府認定の少数民族が16民族、存在するという。この作品は、その中の一つ、アミ族の人々が主役となって物語が展開してゆく。

「睇戲」と書いて「たいへい」。広東語で、映画を見ること。

a656s692361439821671台題 『太陽的孩子』
阿美語題 『Wawa No Cidal』
邦題 『太陽の子』
現地公開年 2015年
製作地 台湾
言語 標準中国語、アミ族語

評価 ★★★★☆(★5つで満点 ☆は0.5点)

導演(監督): 鄭有傑(チェン・ヨウチェ)、勒嘎·舒米(レカル・スミ)

領銜主演(主演):阿洛·卡力亭·巴奇辣(アロ・カリティン・パチラル)、吳燕姿(ウー・イェンズー)、林嘉均(リン・ジァジュン)、許金財(シュー・ジンツァイ)、徐詣帆(シュー・イーファン)

実によい映画である。なのに日本では配給会社はこの良作に見向きもしない。よって有志による地道な自主上映会を継続せざるを得ない。書店に行けば、台湾本が百花繚乱、女性誌もグルメ誌も間断なく台湾特集を打ち、テレビのバラエティ番組までもが台湾を多く取り上げている。なのに、である。不思議な話である…。

<あらすじ>
先住民族・アミ族のパナイ(阿洛·卡力亭·巴奇辣)は、台北のテレビ局に勤める女性ジャーナリスト。ある日、地元花蓮の集落でパナイのふたりの子供・ナカウ(吳燕姿)とセラ(林嘉均)と暮らすパナイの父(許金財)が病に倒れる。帰省したパナイが目にしたものは、一面の荒れ田とそこに持ち上がった大型ホテル建設計画だった。雇用創出や観光収入を期待する賛成派と、先祖伝来の土地を失うことを心配する反対派。そして、村に仕事があれば母親が帰ってくるかもと期待する子供たちと、部族の伝統でもある稲作を守りたいパナイの父。開発か、伝統か。二つに割れてしまった家族や故郷の人々。漢民族化が進み、言葉や伝統を失いつつあった先住民の誇りを、取り戻したい――自分の名前(パナイ=稲穂)の由来でもある伝統の米「海稲米」の復活にすべてを賭け、パナイは故郷に戻る決心をする。(映画『太陽の子』Facebookより)

ネット上に限らず、新聞や雑誌などでもこの作品が取り上げられ、そして語れているのだが、その流れに乗って観ると、どうしてもアミ族が大手デベロッパーのリゾート開発に立ち向かう、というストーリーで観てしまいがちなのだが、作品の情報をほとんど持たずに観たとしたら、まったく違う視点や感情で鑑賞できたかもしれないな、という思いがあって、その点は作品に対して申し訳なく思った。

氾濫する台湾情報の中で、ようやくスポットを浴び始めた台湾東海岸の青い海と、抜けるような青空がまぶしい。その中を明るい表情で走るパナイの子供たちの表情が、なんとも言えない。この風景と子供たちの表情だけでも、この映画を観た価値があったと思えるほどの素晴らしいものだった。二人は、現地でのオーディションで選ばれたのだという。熟練した子役を配するのが常套手段だが、こういうロケーションでの映像には、地元の子にかなう子役はいないだろう。

印象に残るシーンがいくつかあった。

米の収穫を迎えようとするときに、やっとここまでこぎつけたにもかかわらず、行政の、法の「爪」がショベルカーと化して、水田に襲い掛かる。村人たちが座り込み抗議を続ける中、いよいよ警察による座り込みメンバーの強制退去措置が始まる。最前列に座り込んでいた老婆に詰め寄った若い警官(鐘硯誠/ジョン・イェンチェン)に老婆は問う。「坊やもアミ族だろ、坊やはどこの部落の子なんだ?」と。今、そのシーンを思い出しても涙腺決壊寸前なのである。

小生は、アミ族に対して何の思い入れもない。思い入れようと思っても、アミ族のことを何も知らないのである。と言うのに、なんでこんなに胸を揺さぶられるんだろう…。

警官役の鐘硯誠(ジョン・イェンチェン)、見覚えあると思ってたら、『KANO』の三番・ショート、上松君だった

ラストシーンは、民族衣装をまとった村人総出で繰り広げられるアミ族の祭り。台北へ進学が決まったパナイの長女が、男らしい民族衣装を着た弟に「お姉ちゃんは台北へ行くけど、おじいちゃんとお母さんのこと、頼んだわよ」と言うシーン。もし、あれが普段着だったら…。おそらくそれなりに感動はするだろうけど、やはり涙腺決壊に至るような感動にはならなかっただろう。繰り返すけど、アミ族に対して何の思い入れもないし、アミ族のことを何も知らないと言うのに…。

多分、小生は他の人の感じ方と少々違う角度で、この作品から感動を受けていたのだと思う。もしかしたら、それは結局は同じところに帰結するのかもしれないが。

小生が30歳代半ばだったから、もうかれこれ20年近い昔の話なってしまうが、香港での最初の奉公先を辞め、時間ができたので、雲南省の少数民族を訪ね歩く旅に出た。どの地方へ行っても、漢族が大きな顔をして、いかにも「この地を解放してやった」みたいな風を吹かしているように見えたのだが、一方で、少数民族の集落ではいまだ高床式の住居で生活していたり、タイ族の村では少年僧たちが読経していたりなど、それぞれの民族の慣習にならった日々を送っていた。

麗江という高地にはナシ族が暮らす。「東巴文字」という象形文字を今に伝える民族である。小生が宿泊した宿の前は、毛沢東像が立ち、共産党のスローガンが大書されている広場になっていた。共産党はこの地を何年何月に解放したという建前だが、それは要するに人民解放軍により武力制圧されたということである。

この広場で毎夜、ナシ族の若者たちが集まって、輪になって、ナシ族の民謡を歌いながら踊るのである。踊りの輪はどんどん膨らみ、欧米人観光客らも加わり熱狂してゆく。いかにも毛沢東像に見せつけるかのように…。これはもう、感動以外の言葉では言い表せない光景だった。

この映画全体を通じて、あのナシ族の踊りの輪が何度も脳裏をよぎったのである。毛沢東の前で民族の踊りを繰り広げるナシ族の若者達の姿が、「海稲米」の復活に賭けるアミ族の人達に重なって見えたのは言うまでもない。うまく言葉が見つからないが、「少数民族の主張」とでも言うものなのか。それでは軽すぎるか…。とにかく、そんな叫びにも似たような何かを伝える力が、この作品にはみなぎっていた。

多くの人に見てもらいたい作品だが、現在のところ、日本の配給会社で購入に手を挙げているところはないし、今後も多分現れないだろうと思われる。日本国内の上映に関しては、ジャーナリストの野嶋剛氏が上映権を受権しており、今回の上映後も野嶋氏の講演があった。「この素晴らしい作品を多くの日本人に観てもらいたいとの思い」でからの所有だと言う。

映画館で観た作品でもないし、有志主催の上映会での鑑賞なので、特にブログで取り上げるつもりもなかったのだが、鑑賞してみて、これは少なくとも「こんないい映画があるよ」くらいはお伝えしておかねばと思った次第である。

《太陽的孩子》正式預告-有一種力量,叫溫柔

舒米恩(スミン)が歌う主題歌『不要放棄』も素晴らしい歌である。この歌は、第52回金馬獎「最優秀オリジナル映画主題歌賞」、第27回金曲獎「年度ヒット曲賞」を受賞している。

《太陽的孩子》電影主題曲-不要放棄Aka pisawad (阿美族語版)

(平成29年4月9日 大阪府立男女共同参画・青少年センター <ドーンセンター>)



 


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