【私家版『二流文楽論』 その1】*旧ブログ

 何某の市長と、文楽をはじめとする「文化助成金を受けていた側」の諸団体とのやりとりについては、いずれは拙ブログで取り上げようとは思っていたのだが、文楽劇場開場以前からの文楽ファンであり、朝比奈先生のタクトで大フィルが奏でる『大阪市歌』のメロディに感動してきた身としては、どうしても情を傾けてしまうので、あえて触れないことにしてきた。それは文楽を観劇した日のブログにおいても、多少の問題提起を文楽に投げかけたりもしたが、それはあくまで、日常的な不満や要求であり、何某の市長の存在あってもなくても同様のことである。

そして事ここに至り、何某より、文楽助成金に対する見解が大阪市のホームページ上に公開されたので、それを閲覧もしたうえで、思うところを綴ってみようという次第なり。また、松竹が文楽の興行一切を国に献納し、文楽協会が設立されたのが昭和38年で、これは小生が生まれた年でもあり、ここに文楽との浅からぬ因縁もかねてより感じてはいたので、此度のような論議が起こる起こらざるにかかわらず、文楽については、愛情を持ちつつも厳しく接してゆかねばならないということも、何やら自らの使命と思い、ここに織田作之助著の『二流文楽論』の名を拝借し、暴論を承知の上で、「二流の文楽見物人」による「二流」の論も残しておくのもよいだろうと感じた次第。

 この稿を文楽関係者(協会、劇場、技芸員)や大阪市の関係者が目にすることはまずは無いだろうし、たとえ目にしたところで所詮は「二流好事家」の論であるのだから、大阪市の文化行政にほとんど影響を及ぶすこともないのだろうけど、一般の「文楽好き」な人間の最下層に位置するであろう小生が、こんな具合で今回の成り行きを見守っているということを知っていただければ、これは幸い。数度に分けてアップしてゆく次第。

さてここに、何某の市長が大阪市の文化行政に関して、「文化音痴」甚だしき施策を打ち出しているのは何ともけしからんと、怒り心頭の方々が多数あり。とりわけ府知事時代に遡っての「文楽」に対する諸々の発言が大きな波紋を呼んでいるが、何某のような人物は、誰がどのように説得しようとも、或いは性根を叩き直そうとも、文楽強制収容所で思想改造しようとも、「文楽」愛好家はもとより、理解者にすら決して転じることはないから、万事において静観し、彼の打ちだした施策なり予算案をよく吟味の上、その数字や取り決め事の中で粛々と文楽の公演や芸の伝承を続けてゆくしかないのである。

 かかる状況において、やれ「大阪の文化は死んだ」、やれ「大阪をこれ以上文化不毛の地にするな」などと、いまさらなことを嘆き悲しむ(或いは嘆くふり)をする人も、少なからず。しかし、これらはまさに「いまさら」な悲嘆であり、「大阪の文化」などはすでに死んでいるし、とうの昔に「不毛」に陥っているのである。生きておれば、こんな「文楽論争」には発展せず、大阪市の助成金など当てにせず、文楽は余裕綽々で興行と伝承を運営できているのである。要するに、企業も市民も文化にカネをつぎ込まなくなって久しいのである。そこに今回、「自治体もカネの投じ方を考えさせてもらう」ということになったわけで、ようやく大阪市も「市民感覚」を持つようになったのか、という具合である。

 企業や市民が「文化」は自分らに必要なものとみなし、相応にカネをつぎ込んでおれば、文楽はもとより、上方歌舞伎や上方落語が消滅の危機にさらされることはなかったであろうし、南海ホークスも近鉄バファローズもいまなお健在だったであろう。これら以外にも、数多くあった劇場や寄席小屋は姿を消し、それと共に「保存」の対象にすらならなかった多くの芸能も姿を消していったのである。そして残ったのはパチンコ屋やゲームセンター、飲食ビルである。それが本意ではないとしても、大阪市民や在阪企業の選択は「文化」よりも「遊戯施設」などの「実利」だったと言われても仕方ない現実がある。すなわち、市民や在阪企業は自らの手でこれらの「文化」を抹殺したのである。そして無くなってから「道頓堀五座の活気を、道頓堀に芝居の灯を再び!」だのと声を上げ、南海や近鉄の「復刻ユニフォーム」などで往時を懐かしむなど、「自ら抹殺したくせに今になって何を」というちゃんちゃんちゃらおかしさの悲哀を感じさせる言動に至るのである。暴論が過ぎた観もあるけれど、まさにそれが「文化が死んでいる」大阪の現実であり、気風であり流れなのである。

<第1章おわり>


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