前回、前々回の「尖閣どがちゃが」はまだまだ序章でして、いよいよこれからが本番であります。
1996年秋の尖閣騒ぎを振り返る、その3回目。
9月18日はシナにとっての「国恥日」。
満州事変の発端となった柳条湖事件の日であります。それにしても、4千年だかなんだか知らないけど、やたらと「恥ずかしい」歴史の多い国であります…。
その「国恥日」、1996年9月18日は柳条湖事件65周年にあたり、折からの尖閣騒ぎに乗じて、反日気運は大いに盛り上がったのでした。
■日本人学校中等部の校門前の歩道に市民団体が「旭日旗」をペイント。「日本人の子供に踏み絵をさせて歴史を教え込んでやる!」
■台湾系民主派政党「123民主同盟」はそごうに乱入し、制止した警備員ともみ合い、4人負傷。
■夜には日本人観光客でにぎわう尖沙咀(Tsim Sha Tsui)の時計台近辺で民主派主導の反日キャンドル集会。6000人が「打倒日本軍国主義!」をコール
あまりの過激ぶりに、ようやく香港人の中にも「在住日本人や観光客をターゲットにするな」との声も出始めますが、当然ながら「国賊」としてつるし上げられちゃいます。
おかしいのは、そごうに乱入して「日本製品不買」をアピールした123民主同盟のメンバー。大暴れして警察に連行され、持ち物検査などを受けたわけですが、頭の先から足の先まで、身につけていたものすべてが日本製あるいは日本のメーカーのものだった…、というオチが笑わせます。刺々しい反日の日々に一服の清涼剤でありました
この頃はもう、新聞、テレビ、雑誌…あらゆるメディアが「打倒日本軍国主義」一色に染まり、きわめてうっとおしい日々だったのは言うまでもありません。とにかくその主張の何もかもが理不尽で、やくざのインネンみたいな言いがかりばかり。タクシーに乗って日本人と分かるやいなや「釣魚台がどーしたこーした云々…」。まだ乗れるのはいいほうで、乗車拒否も頻繁にありました。小生の12年間の香港生活であそこまで香港全体が「反日」に染まったのは、最初で最後です。
当地で発行される日本語の週刊タブロイド紙は、きちんと日本語で状況把握したいというわけで、飛ぶように売れていました。当然でしょう。広東語情報はもちろん、英語情報までが「反日」なんですから。
ところが。
デモを取材した同紙のリポートの最後の一文にはうんざりしました。「参加者は『わたしたちは本当に怒っているのです』と言った。我々日本人はこの言葉を真摯に受け止めなければならない」みたいな締めくくり。これ、おかしくはないか? 香港人の怒りを受け止めろ、って言われても…。怒りたいのはこっちの方である。
「軍国主義の亡霊が再び中国侵略を企んでいる」など、連日のように新聞やテレビは言うけれど、実際のところ「軍国主義の亡霊」に支配されて「反日」以外の何も見えていなかったのは、デモの主催者や一部のコアなデモ参加者でだったと思います。そこに気づいている者が恐らくは圧倒多数だったのでしょうが、それを許さない空気が香港を覆っていたわけです。結局、件の日本語情報紙もその空気に飲まれてしまったのでしょうか? それとも記者の思想背景がそう書かせたのでしょうか?
そして。
9月22日。尖閣上陸を目指す活動家17人と「従軍記者」50人を乗せた「保釣号」が出航。「保釣の悲劇」の始まりであります…。
在大阪香港永久居民。
頑張らなくていい日々を模索して生きています。