【香港主権移交20周年④】RTHK『鏗鏘集』「回歸廿周年系列」を観て<2>

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今回も香港電台(RTHK)のドキュメント番組『鏗鏘集』の「回歸廿周年系列」を観てのあれやこれやを。

2「表現の自由、報道の自由」危惧される表現の自由、報道の自由について、現場に携わる人々の声を聞く

映画『十年』の世界

香港の主権が移交された1997年当時、中学生だった映画『十年』の監督、歐文傑(ジェヴォンズ・アウ)。多くの映画人が大陸へ活動の軸足を移して行く中で、現実問題として、中国での撮影、上映のハードルは高く、表現の範囲が非常に限られてしまうことに失望し、3年前に「香港で香港の映画を撮る」道を選ぶ。何よりも、香港のクリエイティブ界を信じていたからだ。政治的題材を扱ってもそれほど議論を呼ぶとも思ってはいなかったが、「政治的素材は非常に敏感な問題。白色テロの恐怖は感じていないわけではない」と言う。

インディ作品の分野で活動していた中で、仲間とのオムニバス作品『十年』が、第35回香港電影金像奨で最優秀作品賞を獲得する。しかし、この受賞が大陸では封殺されているのは、【香港主権移交20周年②】映画の20年<2>で記した通りである。当初、単館上映だった『十年』は、瞬く間に話題を呼び、上映館も増え、インディ作品としては異例のロングラン興行となるも、香港電影金像奨での中国側の対応を見てからは、上映を避ける映画館が増えてゆく。まさに『十年』が描く世界が現実のものとなっているのである。
また、第36回金像奨では3人の監督で撮った『樹大招風(邦・大樹は風を招く)』が、最優秀作品賞、最優秀監督賞など5部門で受賞したが、歐文傑が監督に名を連ねていることから、この作品もまた大陸では封殺されてしまう。

小生は帰国してからも毎回、金像奨のLiveをネットで観ているのだが、『十年』が最優秀作品賞に決定した時の、会場客席にいた香港の大手映画会社のトップ連中の表情が忘れられない。一様に不満げな苦笑いや薄笑いを浮かべていた。こういう態度を取らざるを得なかったのだ。もし、『十年』の受賞に、他の出席者と同様に立ち上がって拍手を送っている姿が、中国のテレビ中継で映し出されてしまったら…。大陸での自分たちのビジネスを守るためには、仏頂面するしかなかったのだろう。つまりは、「自己規制」である。

弾圧から免れるための『自己規制』

返還後の香港の「表現の自由、報道の自由」を語るとき、政治的圧力よりもむしろ恐れるべきは、「弾圧から免れるための『自己規制』」だ。「自己規制」しなかったために、どんな弾圧を受けてしまうのか…。「銅鑼灣書店事件」が脳裏をよぎる…。

70~80年代、最前線記者だった趙應春は1990年代初頭、香港で最初の有料テレビ局「有線電視」を立ち上げた。1997年が近づくにつれて、局内には返還後の「報道の自由」への悲観論が強まっていったと言う。「早く転職しないと解放軍がやって来る!」という極論を吐く者までいた。「20年過ぎても解放軍は駐留基地の外には出たことがない。解放軍はあくまで『中国の主権の象徴』にすぎないと考えている。中国が20年前に比べて、香港人を恐怖に陥れているかと言えば、私にはそんな形跡は見えない」と言う。

ただし、この20年の変化は、ビジネス面での圧力を表面に出す形での政治圧力が強まったと感じている。事実、有線電視は経営困難に陥り、倒産の危機に瀕した。新たな出資元は中国政協委員である。

「雨傘行動の時、『蘋果日報』(民主派支援)も『文滙報』(中国政府の口舌)もどう記事を書くかは簡単なハナシだが、我々の報道の仕方は難しかった。報道の基本的な使命を果たさねばならないからだ。建制派(親政府派)からも反建制派(民主派など)からも常に意見が寄せられたが、結局のところ我々は自分たちの基本路線でやるしかない、原則は曲げられない。世の中がどんなに変わろうとも…。」

『蘋果日報』以外はすべて「親中メディア」

2003年、『香港基本法第23条』の「国家安全法」の立法化を特区政府は急ぐも、返還記念日の7月1日に50万人が街に繰り出して反対デモを行い、23条立法化は先送りとなる。その一方で、影響力あるラジオのコメンテーターや雑誌編集長など言論人が、暴漢に襲われる事件が頻発するようになる。また、多くのメディアの経営に何らかの形で中国系企業が参画するようになり、今では『蘋果日報』以外はすべて「親中メディア」と言われるほどにまでメディアの世界は変容した。これに応じる形で、香港の報道の自由度は落ちてゆき、「国境なき記者団」が毎年発表する世界各地の報道自由度での香港のランクは、2002年の18位から今年は73位にまで下落してしまう。香港記者協会の前主席、麥燕庭は「香港主要媒体26社のうち、中国政府から直接コントロールされているのは、8社。中国企業が大株主である」と指摘する。

銅鑼湾書店事件の衝撃

大陸では発禁となっているオピニオン誌『前哨』の編集長、劉達文、66歳。香港生まれの彼は、発展する中国を学びたい、見たいとの思いから、大陸での勉学の道を選ぶ。文化大革命を経て自由な香港への望郷の念が次第に強まる。「大陸にいた当時は、自分が書いた文章を発表する場がなかった」。自由を求めて、香港に戻る。

1989年、当時の新華社香港分社社長だった周南は、そんな香港の自由な空気を「香港是反共的前哨陣地(香港は反共の前哨陣地だ)」と非難する。そのころ創刊したのが『前哨』である。徹底して中国政府高官の汚職やスキャンダルを取り上げてきたが、この種の雑誌が1997年以降も存続できるかどうか、それは「一国両制度」の下、「報道の自由」が維持されるかを見るための、大きな指標でもあった。返還から20年経過し、一応、形式上は維持されている。が、しかし…。
彼の姉は言う。「『銅鑼湾書店事件』以降、怖くて仕方ない」と。劉達文は言う。「『銅鑼灣書店事件』以降、国家機密などに関する本の出版を敬遠する風潮が強まった。ウチの社員も恐怖に怯えている」と。

Ⓒ筆者撮影

大陸での「禁書」を販売していた「銅鑼灣書店」の関係者が5人が一斉に姿を消した、事実上、中国側による「拉致事件」は、司法の独立、出版の自由という「香港基本法」の保障する「自由」に大きな影を落とす事件だった。その後、香港に戻った同書店店主の林榮基は今も常に恐怖を感じている。「外出時は帽子をかぶってマスクをして。帰宅する道筋も毎回変えている。待ち伏せされていないか不安だ」。

この「銅鑼灣書店事件」に関して、先日BBCを観ていたら、就任したばかりの林鄭月娥(キャリー・ラム)行政長官単独インタビューが放映されていた。BBCの記者は「司法の独立の侵害」についてかなり食い下がって質問していたが、林鄭長官は終始にこやかに「その都度、香港の法に照らし合わせて対応する。『銅鑼灣書店事件』はまだ警察の捜査中の案件で、私が意見を述べるべきではない」と繰り返す。この押し問答がかなりの時間続いたが、林鄭長官の態度はまったく変わらず。このおばちゃん、歴代の行政長官でもっとも手ごわいのでは、と感じた。

香港と中央、ますます乖離する自由の線引き

番組は『前哨』の編集長、劉達文の「香港の競争力、柔軟性は自由あってのことだ」というコメントで締めくくられた。
中国は習近平体制になって、以前よりもはるかに明確に「一国ありきの二制度」という態度を強めている。「一国ありきの二制度」の下で、どこまで香港人の望む「自由」は保障されるのか? 中共側が「自由」の線引きをどこに持ってくるかにかかわっているが、この20年を振り返る限り、或いは中共建国以来の歩みを見る限り、香港人の望む「自由」と中共側が想定する「自由」の乖離は、果てしなく大きいのは明白である。



 


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